知性の転覆と自分を消し忘れた日本人 - ゆとろぎへの道 仲村峯夫 一隅を照らす素晴らしきかな人生 照らさずとも好し また素晴らしきかなこの人生(とき)

  「知性の転覆」と自分を消し忘れた日本人

 標題の「知性の転覆」は「日本人がバカになってしまう構造」という、サブタイトルがついた橋本治氏の著書である。

知性とは辞書的には「物事を理解し、考え、判断していく能力」を指す。

しかし、哲学的には「意思や感情などの人間の表象的な能力に対置する、心理や存在を対象とする精神上の上級能力」と書いてあったりする。

言葉としてはわかるのだが、全体の意味はイマイチ分かりにくいので橋本氏の著書の中から「知性」についての記述を拾ってみる。

知性とはモラルを内包するので、人が社会から逸脱しないように繋ぎとめておく力」だったりする。

 現代の知性と言うものは、一昔前のもっぱら自分の在り方だけを考える、「自己達成」と言うような文学的なものではなく、自分中心の天動説でもない。

様々な問題の整合性を頭に入れて解決策を見いだすものである。

これを敷衍すると「自分のことのみを考ええずに、皆のことも考えよう」になる。以上が橋本氏の言う知性である。

 昨日のブログでウイルバーのいう、「意識のスぺクトラム」は「人間のあらゆる視点は必ずある真実を内包すると同時に、それに対する構造的な矛盾や盲点も内包する」となっていた。

それらを認識し、尊重しその関係性を相補的に理解、考察するのがインテグラル(統合)思想だという。

要するにAかBかの二者択一の選択ではなくて、AもBも相補的に理解し検討の俎上に載せるということである。

これはある意味では、服部匡成氏が言うところの、「OR世界か」から「AND「世界」への価値観(文明)の転換である。

 昨今のように「自分ファースト」自分中心主義の蔓延する社会では知性とモラルが簡単に分離し、他者の存在が簡単に忘れ去られるようになるのだろう。

他人の意見、特に少数派の意見などは時に雑音扱いされる。

民主主義を標榜しても、安易に多数決原理を実践するだけだったら、他人を排除しているという認識も自覚も希薄になる、残るのは民主主義の王道の実践者意識のみしかない。

 自分ファーストとは、全てを自分の視点でものごとを見て、判断するということである。

そこに矛盾や盲点があろうとなかろうとほぼ関係なく、自らの立場でものを判断する。

「自分たちに都合の悪いモノ、理解できないものは全てフェイクであり、受け入れられない」。

こうなれば立派な反知性主義である、自分以外の他者は目に入らない。いや、見たくも無いのである。

確固たる自己中心主義に裏打ちされた筋金入りの自己中思想の完結である。

 橋本氏によれば自己表現や自己主張をするときのルールがあるという。

「自己主張とか自己表現というのは、「自分ではなく、自分が獲得した『社会的人格』が為すべきものであるという。

その社会的人格を獲得するためには一度「自分を消さなければならない」と言っている。

自分を消すとは一旦、自分の視点(思いや理解、判断)から離れ、現実や対象をそのまま受け入れることなのだろう。

表現とか自己主張なるものは「自分を超えたもの」であり、それは一度自分を捨てそのものに「同化」し、その後に「自分を再構築」して得られるものだという。

 演芸や芸術、武道、お茶や生け花などの日本の伝統の技能・技術なども全ては伝統の型から入り、その修行を積み重ねた後に型後にが確固たるものなる。

そしてその型を超えた一部の人たちが「匠」や「名人」と呼ばれるのだろう。

所謂、「型より入りて,型を出る」である。

 自己主張や自己表現の際のマナーとしての「社会的人格」も身に付けず、ヒステリックに己の自己主張のみを繰り返すのがヘイトであろう。

このように、「自分を消し忘れ」自己中の己の本性が前面に出た自己主張のみがまかり通る社会が氏の言う、「知性の転覆」した社会なのだろうと思う。

そして、その社会の「全ての元凶」は当事者たちの反省の無さだという。